茶道鎮信流とは 鎮信流は旧肥前平戸(現長崎県平戸市)藩主であった松浦鎮信【まつら ちんしん 元和八年(1622)年〜元禄十六(1703)年】の興しました武家茶道の一流であります。
鎮信は拙家の二十九世であり鎮信以前に長い歴史があり、それが直接、間接に鎮信の茶に影響を与えていると感じますので、初めに少々拙家の歴史につき申し上げ度いと思います。 記録によりますと拙家は嵯峨天皇の第十八皇子左大臣源融【みなもとのとおる 弘仁十三(822)年〜寛平七(895)年】を始祖とし、三代目の仕(つこう)の時より武家となりました。八代目久(ひさし)が現在の平戸市に近い今福の地に検非違使として着任いたしましたが、平戸島に本拠をかまえましたのは十一代持(たもつ)の時であり八百数十年前のことになります。久の頃より地名に因み松浦(まつら)姓を名乗るようになりました。その間源平の戦い、蒙古との戦い、下って文禄、慶長の役、関が原の戦い、ヨーロッパ勢の日本進出等を家として経験して参りました。 栄西禅師が宋より帰り本邦初の禅規を行い茶の実を植えたのも平戸であります。
これらの歴史は当然ながら私を含む子孫代代の処世に影響を与えます。鎮信の茶道観にも何らかの影響があったことは想像にかたくありません。鎮信は若年より茶を好み、当時の名のある茶人たちの茶を研究しましたが、幕府の茶道指南役となった大和小泉の大名、片桐石州公の門に入り石州公の歿後その家臣藤林宗源より皆伝を受けた後、石州公の茶を範とし他流の思想を塩梅して自らの一派を興したのであります。鎮信は茶を「文武両道のうちの風流」として位置づけ、「心胆を茶儀の間に養うべし」「柔弱を嫌い、強く美しきをよしとすと申し、命を捨てることも厭わぬ武人が平常心を保ち、「強く美しく」生きる心を茶によって、培おうとしたものであります。鎮信流の古茶書「数寄道極意」にも「・・・茶の湯は飲食の楽にあらず。心を磨く修行なり・・・云々」とあります。
武家茶道と申しますと、とても現代には通用しない意味のないもののような印象を与えますが、私共はいつの世にも又、今こそ「武家の精神」が必要ではないかと思うのであります。武家の精神とは武士道の中にあるわけでありますが、武士は立場上生死を超越した、精神的に強い存在でなければならないという必要性がありました。
粗野であった武士が公家に代わって台頭し、国を治めるようになると、自らの欠点を悟り、我が身を磨き、円満な人格を得、文化的にも向上する必要があることを感じたのであります。 「武」とは本来「殺すことを止める」という意味で、古代中国の兵法書「孫子」にあるように、徳の高い指導者が武力ではなくその徳の力で世を治めるのを理想とする、という考え方であります。禅を精神的背景として持つ茶道は、武士が日常の生活の中で自分を磨き、また、慰安の手段として行うには好適なものであったのであります。
現代はむろん武士の時代ではありませんが、人間というものは基本的にはいつの時代も変わりません。様々な弱みを持ち、煩悩に苛まれ、「真の人」になるということは難事であります。機械文明万能の今、人間の評価が職業上の知能、能力の有無、仕事の成果としての富の大小などに偏り、真の人間性というものは案外問題にされていないように思われます。人格形成の手段として茶はむろん補足的なものでありますが、自分の心を磨き、穏やかで心細やかでありながら自らの「我」を制御出来る強い人間に自らを高めるということが求められなければならないと、考えます。
鎮信流は明治に至る前は拙家や藩の内外でのみ行われてきましたが、維新後、時の当主心月 松浦詮は、舶来文明の波で衰退した茶道を復興すべく、貴族院議員、宮中参与としての立場を用いて、茶道の挽回に心を砕きました。新時代を迎え、婦女子の教育の一環としてはじめて茶を女子学習院、日本女子大学その他の学校で指導致したのも心月であります。中興の祖としてのその働きが現在の鎮信流の基盤となっています。